. 研究の背景と目的
スポーツ活動において,体力や体調を適度な状態に整えておくこと(コンディショニング)は,高度なパフォーマンスを発揮するため,あるいは効果的で安全なトレーニングを行う上で重要である.近年,スポーツ参加人口や年齢層の拡大,及び参加目的の多様化が進み,コンディショニングの目的と内容も多様で高度なものになっている.したがって,スポーツ活動に関連したコンディショニングにおいては,体力や体調を多面的に評価するとともに,体力や体調に関連する様々な因子が体力や体調に影響を及ぼす機序についての理解を深めて,目的に合わせた調整を行う必要があると思われる.
自律神経系は,生体制御及び生体防御のために,外的ストレスに対して短い潜時で作動する調節機構である.自律神経系は交感神経系と副交感神経系とからなり,多くの臓器では,両者の拮抗作用により機能が調整されている.例えば,心臓では,心臓交感神経系と心臓副交感神経系によって心収縮能や調律が制御されている.心臓自律神経系活動は,生体に加わる急性あるいは慢性的な様々な要因によって変化したり適応することが知られている.また,心臓自律神経系活動水準が,体力や疲労などの体調の変化,あるいは生体リズムなどに関連して変化する可能性も示唆されている.したがって,心臓自律神経系活動におけるスポーツや運動と関連した変化や適応を,スポーツ活動におけるコンディショニングを念頭において,検討することは有意義なことと考えられるが,これまでに十分な検討は行われていない.本研究の目的は,心臓自律神経系活動と持久性トレーニング及び持久性体力水準との関連,生体リズムとの関連,及びトレーニング状況との関連を横断的及び縦断的に検討することであり,さらに,フィールドでの頻回な測定が可能な運動終了後の心臓副交感神経系活動回復応答の簡便で有用な指標の開発をも目的にした.
. 研究の概要
課題1 心臓自律神経系活動と持久性トレーニング及び持久性体力水準との関連
課題1では,安静時心臓自律神経系活動水準,及び運動終了後の心臓副交感神経系活動回復応答について,持久性トレーニング及び脱トレーニングの影響,及び持久性体力水準との関連を検討した.安静時心臓副交感神経系及び心臓交感神経系活動水準の評価には,心拍変動パワースペクトル解析を用い,運動終了後の心臓副交感神経系活動回復応答は,換気性閾値(VT)以下の運動終了後30秒間の心拍数回復過程の時定数(T30)を用いて評価した.
実験1-1:フルマラソンへの参加を目的とした7ヶ月間の持久性トレーニングプログラムに参加した健常な若齢男性を対象に,トレーニングプログラム前後での安静時心臓副交感神経系及び交感神経系活動水準の変化を検討した.トレーニング後,VO2maxが有意に増大し,安静時心臓副交感神経系活動水準の有意な亢進が示唆されたが,安静時心臓交感神経系活動水準に有意な変化は認められなかった.
実験1-2:運動習慣を持たない健常な若齢男性を対象に,8週間の自転車エルゴメーターによる定量的な持久性トレーニング(VO2maxの70%,60分/回,3〜4回/週)を負荷し,トレーニング後の4週間における安静時心臓自律神経系活動水準の変化を検討した.トレーニング直後に,VO2maxは有意に増大し,安静時心臓副交感神経系活動水準も有意に亢進することが示唆された.心臓副交感神経系活動水準の亢進は脱トレーニング2週後まで続くことが示唆されたが,脱トレーニング4週後にはトレーニング効果がほぼ消失した.安静時心臓交感神経系活動水準の指標には,トレーニング及び脱トレーニングに伴う有意な変化は認められなかったので,安静時心臓交感神経系活動水準は,安静時心臓副交感神経活動水準に比べると,トレーニングの影響を受けにくいことが示唆された.ただし,安静時心臓交感神経系活動水準の指標の初期水準と8週間のトレーニング後の変化量の間には有意な負の相関関係が認められ,トレーニング前の安静時心臓交感神経系活動水準が高いほど,トレーニング後の低下が著しいことが示唆された.
実験1-3:幅の広い持久性体力水準を持つ集団を対象に,持久性体力水準(VO2max)と運動後の心臓副交感神経系活動回復応答(T30)との関連を横断的に検討した.VO2maxとT30の間に有意な負の相関関係が認められ,持久性体力水準が高いほど運動後の心臓副交感神経系活動回復応答は速いことが示唆された.
実験1-4:運動習慣を持たない健常な若齢男性を対象に,実験1-2と同様の持久性トレーニングを8週間負荷し,運動後の心臓副交感神経系活動回復応答に及ぼす影響をVO2maxの変化と関連させて検討した.T30はトレーニングにより有意に短縮し,8週間のトレーニング後のT30の変化量はT30の初期値及びVO2maxの変化量と有意に相関した.脱トレーニングによりT30は延長し,トレーニング中止2週後ではトレーニング前値との間の有意差は認められなくなり,脱トレーニング4週後にはほぼトレーニング前の水準に戻った.
実験1-5:健康づくり運動プログラムに参加した中高齢女性を対象に,比較的低強度の運動トレーニングが運動後の心臓副交感神経系活動回復応答に及ぼす影響を検討した.4ヶ月間のトレーニング後,65歳以上の群ではトレーニング後にT30が有意に短縮したが,トレーニングへの参加率が低かった65歳未満の群ではT30に有意な変化は生じなかった.
課題2 心臓自律神経系活動と生体リズムとの関連
自律神経系活動にはサーカディアンリズムが存在することが知られているので,課題2では,運動終了後の心臓副交感神経系活動回復応答の日内変動を検討した.また,日常生活における行動リズムが異なるクロノタイプ(朝型と夜型)が,運動終了後の心臓副交感神経系活動回復応答の日内変動リズムに及ぼす影響についても検討した.
実験2:健常な若齢男性を質問紙によって,朝型,中間型,及び夜型のクロノタイプに分類した後, 80% VT強度の定量運動負荷テストを朝(7:00〜8:00)と夕方(17:00〜18:00)に施行し,T30の日内変動を比較した.その結果,心臓副交感神経系活動回復過程の日内変動はクロノタイプにより異なり,朝型及び中間型のクロノタイプでは,朝と夕方のT30に有意差が認められなかったが,夜型のクロノタイプでは朝の運動における心臓副交感神経系活動回復過程が遅延していることが示唆された.
課題3 心臓自律神経系活動とトレーニング状況との関連
課題3では,まず,フィールドで頻回に測定できる心臓副交感神経系活動回復応答の簡易評価指標として,運動終了後30秒間の心拍減少率(%ΔHR30)を提案し,T30との相関性及び運動強度依存性を評価して,指標としての妥当性を検討した.次に,夏期合宿に参加した競技者を対象にして,%ΔHR30とトレーニング状況との関連を検討した.また,トレーニング状況に関連した疲労等を反映すると思われる他の指標とも比較検討した.
実験3-1:VT以下の異なる定量運動負荷を加えて%ΔHR30を求め,同時に求めたT30と比較すると,%ΔHR30はT30と極めて強く相関し,さらに,40%
VT強度と80% VT強度の運動負荷における%ΔHR30は,各被験者毎でほぼ同じ値を示した.すなわち,%ΔHR30は心臓副交感神経系活動回復応答を反映する指標として妥当であり,運動負荷がVT以下であれば厳密な強度の設定が不要であることが示された
実験3-2:大学男子陸上中長距離走選手の夏期強化合宿中に,トレーニング量(走行距離)と%ΔHR30,及び早朝心拍数やPOMS等の生理的及び心理的指標を連続的に測定した.%ΔHR30は前日の走行距離に応じて変動し,走行距離が多かった日の翌朝には低値を,積極的休養を主体にした日の翌朝には高値を示した.すなわち,心臓副交感神経系活動回復応答はトレーニング状況によって変動し,生体に疲労が生じている場合には遅延し,疲労が回復すれば促進するという可能性が示唆された.また,%ΔHR30と前日走行距離間の相関は他の指標と前日走行距離間の相関より有意に高く,疲労等の生体反応を鋭敏に反映する指標であることが示唆された.
。. 結論
本研究により,心臓自律神経系活動,特に心臓副交感神経系の活動水準は持久性体力や持久性トレーニングに関連して変化すること,活動水準の生体リズムにはクロノタイプによる違いがあること,また,活動水準はトレーニング状況に応じて変動することが示唆された.得られた成果は,スポーツ及び運動に関わる心臓自律神経系活動の特性に新しい知見を加えるものであり,また,心臓自律神経系活動をコンディショニングのための指標の一つとして応用できる可能性を示唆するものと考えられる.